医系総合大学としての発展
1964
昭和39年
富士吉田市に土地を購入し
医、歯、薬の医系総合大学設置への第一歩へ
キャンパス拡張のため富士山麓に土地を求め、教養部の移転を計画した。富士吉田市の土地を取得し、医学部、薬学部の教養課程校舎の建設を開始した。昭和39年1月17日、大雪の日に富士吉田校舎の地鎮祭を挙行した。
薬学部薬学科を設置
医、薬2学部の大学となる
昭和39年に薬学部薬学科が設置された。初年度から定員を満たし、第1回入学宣誓式も無事終了した。これにより医、薬2学部の大学となった。
1967
昭和42年
鈴木モヨが日本最初の
フローレンス?ナイチンゲール賞を授与
元本学病院総婦長鈴木モヨは、民間の病院総婦長として日本最初のフローレンス?ナイチンゲール賞を授与された。授与式では皇后陛下より直接フローレンス?ナイチンゲール記章を下賜された。
看護婦の第一歩である載帽式
看護婦学校、看護婦の第一歩である載帽式はいずれも厳粛に行われている。本学高等看護学校も昭和39年3月指定、認可を受けて発足した。後日定員増加を申請して50名となり、附属病院その他病院の医療看護に従事している。
1975
昭和50年
藤が丘病院が竣工 歯科病院完成
付近住民との話し合いを長期にわたって続け、承認を得た建設でもあるため喜びもひとしおであった。1977
昭和52年
医学部入学志願者が2千人から3、4千人に増加
入学志願者は医学部において2千人から3、4千人に増え、歯学部、薬学部においても増加。父兄の付添いが目立ち、入学志願者と同数程度の父兄の数が見られ、大講堂を控室として準備を要するようになった。1978
昭和53年
創立50周年記念式典?祝賀会
創立50周年を祝う記念式典と祝賀会が昭和53年11月、高輪パシフィックホテルで開催された。当日は関係官庁、医?歯?薬系大学からの招待者、教職員、学生、同窓生、父母ら約1,500人が集い、創立者上條秀介学長ほか、設立から尽力された方々への慰労と感謝の思いを捧げ、創立50周年の節目を参加者全員で祝した。1980
昭和55年
昭和大学病院入院棟オープン
日本初の17階建て高層建築による入院施設が完成した。入院棟完成前は、長年基礎校舎があり、1号館が完成し基礎教舎が移転すると共に、入院棟の建設が行われた。この建設は特定街区方式を採用し、一般建築以上に容積を獲得し、可能な限り内部を広く確保した。1981
昭和56年
歯学部各講座の研究活動の発表機関として「昭和歯学会」を発足
当時、歯学部は開設以来5年目を迎え、各講座の研究活動も活発となっており、学会、論文発表の数も年々増加していた。その間、「昭和大学歯学部研究業績集第3巻」を刊行。この期に至って、学術研究委員会で学会の設立、学会誌の発刊など、発展的な話が協識された。1982
昭和57年
豊洲病院開院
医療過疎地である江東区豊洲地区において、地区町会、自治連合会など地域住民から開院を強く要請されていた。この要請に応え、昭和57年6月1日から中国竞彩网を開始した。1983
昭和58年
大学院歯学研究科開設
大学院歯学研究科は昭和58年3月、文部省大学設置審議会と私立大学審議会の審査を経て、正式に認可された。第1回の歯学部卒業生を送り出した年に、大学院が認可されることは極めて異例であり、本学における歯学教育の充実を知らしめた。1987
昭和62年
昭和大学病院東棟オープン
昭和大学病院建て替えのため、東棟が完成した。大学病院本館が老朽化したため、その建て替えは必須であり、また病院敷地内で工事を行わなければならないため、その一時避難施設として中国竞彩网科の移動が行われ、昭和62年6月1日、オープンした。1989
平成元年